ドブ虎常陸山虎吉が師匠の年寄名出羽ノ海と改めてから
人を介して市毛谷という少年が入門してきたのだ。後の
常陸山谷右衛門である。1890(明治23)年のことである。
しかし、稽古場がなく、高砂部屋で稽古する環境は少しも
変わらない。16歳の市毛谷は御西山でデビューするも、
序二段のとき常陸山に改名した。

常陸山は後に大横綱になるほどだからとんとん拍子に
出世したかというとけしてそうではなかった。それどころ
か巡業中脱走騒ぎを起こしている。身を寄せたのが名古屋
相撲、大阪相撲である。だが、それも人を介して復帰して
からは一気にスピード昇進を果たしていく。幕下2場所、
十両1場所で入幕を果たした。入幕6場所で大関に昇進
した。このころになると常陸山を慕って弟子が増えて
30人くらいになってきた。
横綱常陸山
<常陸山の絵葉書>
 
常陸山は相生町に部屋をかまえ、師匠夫妻をそこに住まわ
せた。さらに1903(明治36)年大阪相撲から国岩が常陸山
の門に入り、名前を両国と改めて幕内格で番付外に付出
された。国岩と一緒に来たのが後の近江富士だった。
脱走中に築いた人脈であった。大関5場所で横綱に昇進
した後は大阪相撲から八陣が四海波の名で、放駒が相生の
名で常陸山の門下に入り、東京相撲の土俵に上がった。
常陸山が併合した小部屋は元天津風の秀ノ山部屋、元
大泉の千賀ノ浦部屋、元達ヶ関の山科部屋、元稲瀬川の
入間川部屋、元千年川(ちとせがわ)の立田山部屋、
元獅子ヶ嶽の君ヶ浜部屋である。このうち入間川部屋には
後に新入幕優勝を果たす後の両国勇治郎がいた。
横綱 常陸山
<常陸山の引退>
 
常陸山は2代目梅ヶ谷とともに大相撲の黄金期を築いた。
1909(明治42)年6月には雨天でも相撲が決行できる
常設館が完成した。常陸山自身は1915(大正4)年春場所
大錦、栃木山が新入幕する前年に引退した。42歳であった。
師匠の出羽ノ海は名跡を引退した常陸山に譲り、隠居した。
常陸山が脱走して復帰したときは叱るどころか喜んだ
ドブ虎師匠は1915(大正4)年11月多くの弟子に看取られ
ながら65歳の生涯を閉じた。